読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ハイパーモラトリアム

日々をだいじに

映画#2 人生フルーツ

注) ネタバレはないが、なんなら大した感想もないので未鑑賞で読むべきではないと思う。サウンドに少々批判的な感想

2017年最初の映画はローグワンだろうな、と思っていたけど衝動的に「人生フルーツ」を見に行ってしまった。

映画『人生フルーツ』公式サイト

前置きもなく率直に映画の感想だけど、僕的には正直ウーンという感じだった。素直に見ていったが、なかなか入り込めなかった。素直に見るというのは作品のテーマを感じとりながら話に共感していくような見方だ。いい雰囲気のドキュメンタリーではあった。

しかし、それにしても団地団のトークイベントはめちゃくちゃ良かった。僕は批判的に映画を見る習慣がないものだから、ザクザク切り込んでいくトークは見ものだった。「映画の趣旨から言えばここカットすればもっと良くなるはずでは?」のところなんかかなり共感したし、こういうクリエイター視点での批判を考えながら見るのは良さそうだ。出来るようになりたい。また「私はこういう風にしか見れなかった」という意見も全然気づかなかったのに言われてみればそう見えてくるので、理にかなっていてナルホド、とか思った。トークイベントとセットで見て本当に良かった。実のところ、映画の批判的な見方というのは、「大局的にみて伝えたいテーマがしっかり伝わるなら細かい辻褄が多少違和感があってもそんな重箱の隅突かなくていいでしょ」とか思っていた。考えを改めさせられた。

しかし、今回は僕自身の評価も微妙だったので、批判的評価をすんなり受け入れられた、ということもあるはずだ。感動していたら何言ってんだコイツラという地獄の時間だったに違いない。また、逆に考えればどうもイマイチだったという映画に対しては批判的に見ていくことで楽しめるだろうという、ということに気付かされたわけである。

僕なりに気になった点を上げるならそれはサウンドだった。音楽寄りの人間なので劇伴とか音に関して結構気になる質なのだが、メロディアスな音楽を何度も使い回されるところに疑問を感じた。ある意味「バグダッドカフェ」を思い出したのだが、それと比べるには音楽のかかるシーンに印象付けられるような何かを感じられなかった。次に無音シーンだ。無音になるとそれだけで息の詰まるような緊張感が出てくるが、どうにも映像と無音が合ってないシーンが何度もあった。あとは、樹木希林の同じナレーションが何度も再生されるのも少々くどさを感じたなと。

僕にはあれほど説得力のある批判は出来ないのでこの辺でやめておこう。

ふと「FAKE」の森監督のことを思い出す。大まかに、「ドキュメンタリーは被写体の現実をありのまま映すものではなく、監督のフィルターを通した見せたい現実を映すものだ」というような内容の記事を読んだ覚えがある。トークイベントの内容も、こういった視点から語られていたように思う。僕はなぜか鑑賞中監督という立場がすっかり抜け落ちていた。しかし気になって思い返してみれば、それは映像に監督自身は出てこないから気付かないのであり、そのように仕組んでいるのだった。インタビューしているにも関わらず、監督は映らず喋らず、影に徹する。むしろこれがスタンダードなドキュメンタリーのあり方な気もしてくる。監督が影に徹することで、監督のフィルターに通した現実を、あたかも被写体のありのままであるかのようにみせるのだ。つまるところ僕はドキュメンタリーの表面を追っていたに過ぎなかった。またこうしてみると森監督の作品の異質さが一層際立って見えてきた。

ところで、この作品は元々テレビ放送用のドキュメンタリーだったのだろうか。去年3月に東海テレビで放送されたようだ。映画という枠でみると僕としては微妙だったが、テレビのドキュメンタリー番組として見れば意外と悪くないのではないかと思う。映画として深読みしなければ、素敵なスローライフのドキュメンタリーかもしれない。お茶の間で見るTV番組なら無音も気にならんかもしれん。

以前同じ映画館でみた「モッシュピット」も、映画として見たらちょっと微妙かなという感想を持ちつつも、しかし映像美と臨場感で見たら抜群の作品だったことを思い出した。

この劇場に来るのは二度目だが、もしかしたら”映画”という枠組みで見るよりもっと幅広い"映像"という枠組みで良い作品をチョイスしているのかもしれない。あるいは、僕自身の”映画とはこうあるもの”という価値観が狭く、もっと広げていくべきだとも言えるか。

映画#1 名画座・テーマ

 昨年下半期はそこそこ映画を見た。そろそろ趣味は映画鑑賞ですって言ってもいいかもしれない。まだ見られていない名作も多いのでおいそれとは言えないが。先に宣言しておくがこの記事にクリティカルなネタバレはない。逆に言うと一言程度の紹介がある。

2016年映画館で見た映画リスト:見た順を思い出そうとしたがいくつか違うだろう

東京にはミニシアターや名画座がたくさんあり良い映画に出会えることが多い。マイナーな作品を見ておきながらなぜあれを見ていないのだというものが沢山あるがレンタルで旧作になったら見ておくのでご勘弁いただきたい。

2016年、特に名画座に初めて行った感動はなかなかのものだった。2作品をセットでお得な値段で見られるのはもちろんのことだが、2作品の相互作用というか、2つ合わせて見ることで共通するテーマを浮き彫りにする、という仕掛けにかなり衝撃を受けた。

僕は「FAKE」と「太陽の蓋」をセットで見た。知らない人にモチーフとしての2作品を一言で説明すると、「FAKE」は佐村河内守のドキュメンタリー、「太陽の蓋」は3.11の政界を描いた作品だ。そしてそこに共通するテーマは報道と情報。情報は伝える側が恣意的に伝えたい情報だけ強調できるし、我々も知りたいことしか知ろうとしない。「FAKE」は1本で見ても物凄く深みのある作品だが、「太陽の蓋」の方は、ともすれば単なる震災を振り返るだけの再現ドキュメンタリーとして見られてしまいかねない。2つ合わせて見ることで一味も二味も深みのある鑑賞体験があるのだ。

 

映画には様々な評価ベクトルがある。

  • 扱うモチーフ
  • 作品を通して伝えたいメッセージとしてのテーマ
  • 映像美
  • 俳優の演技
  • 演出・技術的面白さ
  • サウンド
  • 全体から醸しだされる雰囲気

とか。なぜこんな話をするかというと、僕はメッセージとしてのテーマに重きをおいた評価をしがちであると気づいたからだ。作品モチーフを通してどんなテーマを伝えたかったのか、が大事なのだ。テーマなんて結局受け手がどう捉えるかということだから、僕がどれだけ共感したか、理解できたかに依存してる可能性がある。幸い僕はあまり批判的に鑑賞出来なくて共感しようと努める方なのだが、テーマがうまく捉えられなかったときにどう評価したらいいのか分からなくなって困っている。

例えば「この世界の片隅に」。かなりの話題作だが、僕はいまいちピンとこなかった。もちろん面白かったのだが、「戦争中をひたむきに生きる人々」をモチーフに、何をテーマとして伝えたかったのか、が掴めなかった。他の評価ベクトルで見ればどれをとっても良かったのに、テーマが掴めなかったせいで評価が宙に浮いてしまった感じがして悔しい思いをした。

結局僕は映画から”何か”を得ようとしすぎているのだと思う。映画は必ずしもテーマを伝える手段である必要はないはずだ。しかし「僕がテーマを掴めなかったのか」「作品がそもそもそういう属性を持ってないのか」結局ブラックボックスだという点が辛いところだ。

それならテーマがうまく掴めなくてもいい映画だったと思える作品があるか、と振り返ったところ、「バグダッドカフェ」がそれだった。独特のゆるやかな雰囲気に飲まれて、なんとなくいい映画だったなあという記憶がある。「ノスタルジア」もそれだ。廃墟の映像美が強く刺さったのだった。しかしどちらの作品も何らかの伝えたいテーマがあるんだろう、と匂わせるものがあったとも思う。

つまりここで、テーマの理解は出来なくてもよくて、"何らかのテーマを感じさせるもの"を感じ取れなかったときに僕は宙に投げ出されるのではないか、という仮説にたどり着いた。全てを完全理解するなど一度見た程度で分かるはずもないので、それでも何らかの欠片を感じ取れたなら僕はそれで満足出来るのだろうか。

おはよう。

書きたいことがたくさんあるのに忘れていくのはとても勿体ないことだ。常日頃考えていることの最適な吐口はどこかと問われれば、ブログを答えるのが一番素直ではなかろうか。ツイッタでいいじゃねえかと思われる方もいるだろう。振り返ると僕のツイッタスタイルは思考過程を雑に投げるような感じだった。僕はあの140文字単位を何ポストも使って語るのに向いてないので、結局考える種を投げ捨てて終わってしまっていたと思う。それに今僕はそういうのよりも、推敲しながら文章を書くブログスタイルに魅力を感じている。

そういうわけで、僕は新しくブログを始めることにする。

始めるからには、なぜブログをやるのか理由をはっきりさせておかなければならない。なぜなら僕がそういうことをとても気にする人間だからだ。それ以上は踏み込まないことにする。ダメージを伴う作業であることが予想されるわけだから、これからブログを始めるっていうときに無駄な労力は避けておくべきだろう。とにかく、「なぜ僕はあらゆる物事の本質・理由・価値について考えることが好きなのか」を今は考えたくない。

個人ブログのたいていはそうだと思うが、これも例に漏れず自分のために書くブログだ。役立つ知見を共有したいわけでもないし、そういうのはキイタとかでやればいい。あとアフィリエイトで稼ぎたいわけでもない。

僕がブログをやる最大の理由は思考ツールとして、だ。散歩しながらや、風呂に浸かりながら考え事をするのは楽しい。しかしそうやって漠然と考えていたことが文字を書く過程でクリアになっていくのが、なかなかの快感であることは、多くの先人たちの知ることだろう。薄々勘付いてはいたが、今一歩踏み出せずにいた。

ふたつめはこの無駄な日々を大事に生きるためだ。言うなれば日記である。そうは言っても僕は今までの人生で日記を付けたことがないから単なる予想になってしまうが、人々が日記を書く理由は、毎日を振り返ることで日々の積み重ねを噛みしめるためではないかと思う。逆に何らか日記を書くために活動的になるというのもあるかもしれない。

さいごに、ありきたりだが文章をうまく書けるようになるためだ。この記事を書くにもかなり時間がかかっているし、良い文章がかけたとも思えていない。僕は大した語彙もないし読みやすい書き方も知らない。たくさん書いていく過程でなんらか見えてくるだろう。見えてきてほしい。

ざっとこんなところだろうか。これを投稿すると同時におれのブログは始まる。始める前から黒歴史になっていくことが見え透いているが、そんなこと今は気にするまい。僕の書きたいように書いていくだけだ。黒歴史になったときに恥を知ればいい。